娘に伝える阪神大震災~あの日に消えた光の記憶~

阪神大震災から21年がたちました。

今でも震災のことを考えると、自分の立場のあいまいさや、できなかったことの大きさに呆然とします。

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無力を知って、必死で補おうとしてきた21年。

私はいろんなものを手に入れたはずなのに、今でもあの時の光景を言葉にすることができません。

それでも、私の中に残るあの日の記憶を娘たちには伝えたい。

あの日になくした知らない誰かの命と、どこかの家のあたたかい家庭のぬくもり。

私の娘たちが守り通さなければならないものについて。

 

【2016.04.19 追記】

このたび、熊本の地震で被災された皆様には、心からお見舞い申し上げます。

同じ経験を持つものとして、遠く離れた場所にいる自分に何ができるか、日々向き合うことで応援しています。

21年前のあの日も、そして今も、心がちぎれるような思いでいます。

けれど私も、被災された方も、残った光とともに進むしかありません。

どうかお体を大切に。

そばにいる人を大切に。

来るべき将来、みんなに笑顔が戻りますように。

 

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ずっと話せなかった、あの日の記憶

ほのか、のどかへ

あなたが大人になった時、くり返し語られる災害に無関心であってはいけません。

たとえどんなに昔のことでも、遠くで起こったことでも、その時消えた何かは、誰かが守ろうとした光であったことを知っていてほしいのです。

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お母さんが高校生の時、住んでいた街に大きな地震が起こりました。

その時の被害の大きさや、街の様子はこれからも目にすることがあるでしょう。

黒煙が上がる街や、倒れた高速道路にショックを受けるかもしれません。

失われた命や、倒壊した家屋の数も驚くほどのものです。

けれど命や家族は数字ではなく、あの頃街をあたためていた、ひとつひとつの光でした。

あそこにいたのに何も背負うことができなかった私ができること、あの日に消えた光のことを2人に話します。

いつか2人に命にかえても守りたいものができたとき、どうやってそれを守ればいいのか、知恵を尽くして考えてほしいのです。

あなたがこれから手にする幸せは、そうすることでしか守りきれないのです。

 

当時の自分のこと

震災当時、高校2年生だった私は、まもなく社会に出る年齢になりました。

記憶を共有する街から離れ、マイノリティな震災経験者として様々な集団の一員になりました。

出身が神戸だと話した時に向けられる、同情とねぎらい。

それはいつもあたたかく、親密なものでした。

他人事だと感じたことはなかった。

それでも「大変だった?」と聞かれた時、私はいつも曖昧に笑いながら、言葉を続けることができませんでした。

何度か、きちんと話した方がいいんだろうと思える状況もあった。

けれど、話そうとすると甦るひとつの光景が、私から全ての言葉を奪いました。

 

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被災地の真ん中にあった、学校のこと

あの頃、私が通っていた学校は、被災地の中で最も火災の被害が大きな場所にありました。

学校は火災を免れたのですが、避難所として、授業が再開された後も長期間被災した人たちが生活をしていました。

私の家は被害の大きかった地域から離れていたため、ライフラインは断たれていたものの、住む場所に困ることはありませんでした。

家族や友達も大きなケガをしたり命を落とすことはなく、被災地にいながら、被災者ではないという立場でした。

震災から2週間後、授業が時間短縮で再開されることになりました。

水道が止まっているため、授業は午前中のみ。

設置された仮設トイレは、避難所で生活する人が使用するため、学生は使用してはならないという決まりがありました。

供給される水の量も少なく、やむを得なかったのでしょう。

震災まで通学に使っていた電車は駅の倒壊と、線路の破損で使用できず、最寄りの駅は徒歩で40分以上もかかる場所にありました。

読めない時間とこれからの生活に不安を抱きながら、日常を取り戻すための生活がスタートしました。

 

学校があった街のこと

学校の周辺は昔ながらの小さな工場が集まる場所で、経済的にあまり裕福な地域ではありませんでした。

私の家の近くではほとんど見なくなった古びたアパートも多く、凝縮された空間にぎゅっと人が集まって生活しているような雰囲気がありました。

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バス通りから1本道を入れば、そこは平成から昭和にタイムスリップしたような街並み。

夜になっても電球の光は薄暗く、街灯が煌々と輝く大通りに出ると、なんだかホッとしたような気持ちになりました。

蛍光灯で真昼のように照らされた道になれた私には、怖いと思うこともありました。

それでも。

たくさんの小さな家から夕飯の支度をする音が聞こえ、料理の匂いがすると、ここにもあたたかいテーブルを囲む家庭があるのだと、とても優しい気持ちになりました。

家路を急ぎながら、冷えた体がほんの少しぬくもった気がしていました。

 

地震のあとの街のこと

震災の後、歩いたいつもの通学路に、見慣れた町はありませんでした。

ある所では炭となった木造の住宅から煙が上がり、またある所では、倒壊した家屋が道をふさいでいました。

そして家庭のあたたかさを感じながら横を通ったアパートは、まっさらな更地になっていました。

燃えやすい素材が多かったのでしょうか。

それともいち早く、復興計画の一部として回収が決まったのでしょうか。

住居の跡がなくなった後の土地には、大きな仏壇がひとつ、ぽつんと置いてありました。

これが今も私の時間をあの日に戻す、震災の光景です。

その仏壇がどこからか持ち込まれたものなのか、それとも奇跡的に焼け残ったものなのか、私にはわかりませんでした。

住宅だけではなく、家族が灯した光とともに、かけがえのない命も失われたのかもしれません。

空き地に立つ仏壇は、誰かが守ろうとした何かを弔っているように見えました。

もう2度と戻ることのない光。

弱々しい電球と、チカチカする蛍光灯が照らした生活。

守れなかったんだ、と思いました。

 

あの地震から学んだこと

住宅の耐震性や、命を守るための知識や情報が共有され始めたのはその後のことでした。

阪神大震災がきっかけとなり、災害に対する意識は変わりました。

災害時の対策や支援の態勢を整えるスピードも、当時では想像できないほど早くなりました。

今同じ災害が起こっても、あの時と同じ規模でダメージを受けることはないでしょう。

けれど、それは災害が起こらないという意味ではありません。

災害は起こります。

そして万全と思っていた対策にも多くの予測不能な落ち度があり、命は危険にさらされます。

必ず。

それでも私たちは、そんなことすら知らなかったあの震災の前とは違います。

失ったものは何だったのか、焼け野原になった街で刻んだ記憶から、学ばなければなりません。

生き残った人間ができることは、守りたくても守れなかった、その経験をくり返さないことだけ。

残念なことにどれだけ科学や技術が発達しても、絶対安全だとか、100%助かるという方法はありません。

けれど家族を守る人間一人一人が、大切な人のために何ができるのかを本気で考えたなら、消えない光だってあるはずなのです。

あの震災で、私は自分の無力を知りました。

学校の勉強がどれだけできても、大切な人を守るどころか、自分が生き残る方法すらわからなかった。

このままではいつか私は光を消すことになる。

その恐怖から、必死で道を探した21年でした。

 

街を復興させた力

阪神大震災が起こった年はボランティア元年とも言われ、被災地でのボランティア活動に注目が集まりました。

家も仕事もなくした街の人たちにとって、とてもありがたい存在だったことは間違いありません。

けれど街が21年たった今でも100%とは言えないまでも復興したのは、ボランティアの力ではありません。

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震災があったその日から、あなたのおじいちゃんは仕事へ出かけて行きました。

壊れた会社から必要なものを持ち出し、お客さんを回って安否を確認し、お客さんの会社の復旧を手助けしました。

先の見通しも立たない日々の中、打ちのめされた街に再び光を灯したのは、小さな一歩を進め続けたそんな人たちでした。

そこに住む人間が、少しずつでも前進することでしか自分たちの生活は守れないのだと示してくれたのです。

人間の力が及ばないものに対し、恐れを抱くことは間違いではありません。

けれど自分にできることは何か、守りぬくためにはどんな力が必要なのか、いつも考えていて下さい。

恐怖とともに強く生きて下さい。

時には亡霊に負けそうになることだってあるでしょう。

それでもともに歩み、次なる命を担う人たちの手を離してはいけません。

あなたの幸せの光は、その手の中にしかないからです。

私はこれからも、あの光景とともに生きていきます。

私の大切な光を消さないために。

大切なあなたが、ずっと笑っていてくれるように。

 

21年目の1月17日に

あの日高校生だったお母さんより

 

声にならない記憶を伝えるために

災害で心に傷を負ったなんて、甘ったれるつもりはありません。

復興の力になれなかった私が負ったものなど、何一つありません。

私があの日のことを声に出して話せないのは、今でも災害に対して無力だからです。

言葉にしたら、本当になってしまいそうで、21年間ずっと誰にも話せないでいました。

それでも残しておかなければ、私の記憶の中に灯るあの光もなかったことになってしまう。

だからせめて、文字にして残すことにしました。

今の彼女たちに語りかけるつもりで書いたけれど、理解できるようになるのはもっと先のことかもしれません。

それでもいつか子どもができて、自分に何ができるかと考えた時、私が歩んだ21年間の思いが、一歩の助けになればいいなと思っています。

 

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