桜が見ごろになりました~おばあちゃんに送るうららかな春の手紙~
桜が見ごろを迎えました。
まだ若かりし頃から、祖母は桜の季節が大好きで、南紀に始まり、京都に奈良、果ては東北まで桜をおいかけていました。
花の前には京都の都をどり。
そして仕事帰りには地元の川ぞいに咲く夜桜見物。
祖父に先立たれ一人暮らしだった祖母は、そんなお花見に時々私を同行させてくれました。
年齢的には早すぎる催しもあり、退屈したこともあります。
けれどよそいきの服でいただいたお抹茶や、夜空にうかんだ白い桜と雪洞は、淡い春のしあわせとして記憶に刻まれました。
あれからいくたびかの春、私はいつも桜をながめられたわけではありませんでした。
桜の咲かない海外にいたことも、子育てに必死で花が咲いたことに気がつかなかった春もありました。
それでも毎年4月になると、祖母と過ごした春を思い出します。
80歳をすぎ、足腰もすっかり弱った今年も、祖母はきっと桜を楽しみにしているはずです。
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都をどりがはじまるね
おばあちゃん
桜の季節になりました。
京都の都をどりも始まるんだって。
4月だものね、いよいよ春です。
おばあちゃんと京都へ出かけたの、いつだったかなって思い出していました。
おそろしいことに、あれはもう30年以上も前の話。
お抹茶が苦いと思ったのは、まだ6歳だったからだね。
よくそんな小さな子どもを京都まで連れて行ってくれたなぁと、今はありがたく思っています。
舞妓さんの舞踊もよくわからなかったし、お抹茶は最後とても苦かった。
それでも大人の世界のはしっこにちんまりと座って、華やかな春を体験できたことは、私の大切な思い出です。
思えばおばあちゃんと見たのは、そんな大人の桜ばかり。
夙川沿いに白く光っていた夜桜も、春日大社の参道の桜も、みんなとても静かでした。
そのせいなのか、私の記憶の桜に音はありません。
ただおばあちゃんが「ハナコ、今年は京都へ行こうか?」と楽しそうに笑っていた声だけ。
手をつなぐにはちょっと暑いくらいのうららかな春の日に、おばあちゃんと見たたくさんの桜は、ちゃんとぜんぶ、記憶のアルバムの中にしまってあります。
それでも今年はまた新しい桜。
せっかくだから見にいこうよ。
大人になってみる都をどりも興味があるし、夜桜はフレンチがあうかもしれない。
あんなにきれいな桜を見せてもらって来たのに、私は結局だんごにも目がありません。
それもまた桜の楽しみだよね。
都をどりの和菓子はとても上品でステキだったし、おばあちゃんの東北みやげだって、どれもおいしかったもの。
今年もきっと、おいしい発見もきれいな桜も見つかるはず。
花よりだんごだなんてやっぱり私はおばあちゃんの孫だね、なんて言ったらきっとしかられるだろうけど、楽しみにしています。
日中は暑くても、夕方には冷えてくるかもしれません。
はおるもの、用意して待っててね。
ハナコ
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いつかの桜と今年の桜
思い出話が多いので、おばあちゃんはまるで死んだかのようですが、本人はいたって元気に憎まれ口をたたいています。
近くに住む母がときおり様子を見に行っているのですが、あいかわらず気ままに一人暮らしを楽しみ、まわりがあきれるほどの勝手ぶりなのだとか。
憎まれっ子世に憚るとはよく言ったもので、元気で長生きするはずだと言われています。
そんな人なので、思い出話に聖人君子のように登場するのは違和感があるのですが、そこは桜効果なのでしょうか。
桜とおばあちゃんの記憶は、どの場面も静かで明るいイメージです。
きっと足腰が弱っていても、これまでの春のように、楽しそうにどこかへ出かけて行くでしょう。
私が一緒に出かけられなくても、おばあちゃんは気にしない、そんな人です。
でもだからこそずっと明るいまま残る桜が、私は今年も見たいのです。
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